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大学の教養課程の英語教育については、私の学生のころから批判があった。何年も英語を勉強してきたのに、一向にしゃべれるようにならないではないか。もっと実用英語を教育すべきだというのが趣旨だった。そして、決まり文句のように、教養課程の英語授業でシェークスピアなんかやるからダメなんだと言われた。正直、私もそう思っていた。
ここ数年、大学だけでなく中高もふくめて日本の英語教育はおかしいのではないかと思い始めている。大学入試にTOEFLを導入したり、大学教育でもTOEFLの得点向上を目指したりしていることに、疑問を感じはじめている。
そのきっかけは、AIの進歩により自動翻訳ができるのはそう遠い将来ではないというニュースを耳にするようになったからである。自動翻訳はそう簡単ではないという専門家もいるが、AIの今の進展をみていると自動翻訳の確立はそう遠くは無いと感じている。
自動翻訳ができれば、いわゆるコミュニケーションのための英語は時間をかけて勉強する必要はなくなる。自分の経験でも、欧米帰りの研究者に英語でペラペラやられると、その内容はともかくとして一方的に圧倒されてしまうことがあった。くやしくて、自分も英語ペラペラになりたくて、高額の英会話教材を買ってしまったりしたのであった。これからはこんなことは無くなるのではないかと思う。
今後、翻訳はAIに任せることにすると、英語の勉強の目的はなんだろうか?それは英語使用社会の背景の文化を理解することにあると最近思うようになった。先日の講演でも、「国際会議の席上でシェークスピアから片言隻句が引用できなんてことができたらすばらしいでしょう」と話したが、どこまで理解いただけたかは分からない。中身の無いペラペラ英語は植民地英語だと思うといいたかったのだが・・・。
因みに私が受けた教養部の英語授業の教材は、バートランドラッセルとオルテガ(英訳)だった。深志高校の英語の副読本は、チャーチルの「我が半生」だった。今になってみると、これらは良い授業だった。
改めてこんな事を書いたのは、内田 樹氏の外国語学習についての意見をネット上で読んだからである(リンクページ参照)。英語を含め外国語学習については、文科省や英語教師にだけ丸投げするのではなく、市民として考えを発信しなければいけない時期ではないだろうか?
内田 樹氏の私の英語教育に対する考えを整理するのにたいへん役にたった。
中でも、次に引用する部分は強く同意できる記述である。
[引用]
『今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は同意するわけにはゆきません。』
『植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。』
『植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。』
しかし,ここで冷静にならなければならない.なぜ文科省は,全国の都道府県に順位をつけてあおるのか考えなければならないと思う.ここで言っている英語教育が本当に青少年の教育にとって必要欠くべからざるものなのか?
最近強調されている英語能力はコミュニケーションができるものである.まずは話せて,聞けることが重要視されている.確かに,英語でコミュニケーションが取れれば世界は広がる.その上,読めて書ければ,活躍の場はグローバルに広がるかもしれない.
ただ,このような英語力を必要とする者が日本人の全人口の何パーセント必要なのか.ほとんどの日本人が英語によるコミュニケーションが取れなければならなのかは真剣に検討する必要がある.多くの議論はグローバル化した世界の中での日本の生き残りというような切羽詰まったことが前提になっているような気がする.
日本語の能力が不十分なうちに英語をつめこむと,子ども達の思考能力を落としてしまうという指摘が盛んになされているにも関わらず,文科省が前のめりに初等中等教育での英語教育を推進していくことに疑問を感じる.
言い古されたことではあるが,まずは日本語によるコミュニケーション能力をつけることと,日本語で論理的に考える能力をつける訓練が必要であることを再認識し,この前のめりの英語教育推進に対して冷静に対応することが必要である.
その一方で,日本全体がG7サミットや東京オリンピックでなんとなくはしゃいでいる.
これは,そんな雰囲気の中で生きている人々に衝撃を与える小説である.
福島第一の4基の原発が全て本格的に爆発し,大量の放射性物質が放出され東京を含む東日本全体が汚染されてしまった状況想定されている.
その中で被爆した幼児の「バラカ(薔薇香)」の8年間を中心に,周囲の人間の生き様が描かれている.
人間の根底にある悪魔的な部分,卑しい部分が,原発事故により露わになっていくところが良く描かれていて,読み進むにつれ言って気分が悪くなる.ただ,さもありなんとも思うのである.
原発推進派や反対派の思惑や,それに翻弄される人々,政府の対応,被害者同士の対立などなどおぞましい話が次々に展開されている.
ここで展開されているのは小説という舞台のことではあるが,現実も一枚表面の皮を剥がすと,その下からこれと似たようなことが出てくるかもしれないと思わされ,心穏やかならざる読後感を持たされる本である.
読後,先日聞いた,小出氏の講演での質問者に対する回答を思い出した.
「電気に恩恵を被って生活している我々は原発には反対できないのではないか?」というよくある疑問に小出氏はどう答えるかという質問.
小出氏の回答:この疑問にはどう答えてよいかわ分からないと断った上で,「自分の受益や便宜さのために他者を犠牲にしてはならない」というのが原則ではないだろうか.
常に変化を求め,拡大成長していく資本主義に世界が疲れている.
この辺で一旦休む必要があるのではないかという内田 樹による論考.
政治,経済に限らず科学技術においても同じ状況にあると私も思う.
一旦休んで,体制を整えないと世界はその存続が危ういかもしれない.
少し前に読んだ広井良典「ポスト資本主義−科学・人間・社会の未来−」(岩波新書)の中の以下の記述を記憶に留めておきたい.
『二一世紀は,なお限り無い「拡大・成長」を志向するベクトルと,成熟そして定常化を志向するベクトルとの,深いレベルでの対立ないし,”せめぎ合い”の時代となるだろう』(244p.)
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☆東京大学空間情報科学研究センター・客員研究員
☆日本大学文理学部自然科学研究所・上席研究員
☆一般社団法人日本地質学会理事,ジオパーク支援委員会・委員長,
技術者教育委員会・委員長
☆茨城県北ジオパーク推進協議会顧問